シベリア抑留で戦死した大叔父

北海道のこと

こんにちは、ぽふです。

今日は最近のニュースにもある「選択的夫婦別姓制度」について、ずっと思っていたことがありましたので、書きたいと思います。

選択的夫婦別姓制度を推進したい方の中には、そもそも戸籍制度を廃止すべきという声が上がっているそうです。

戸籍は、家族関係を明らかにする大切なもので、祖先の存在を感じ取れる唯一のものだと思います。

またわたしにとっても、とてもかけがえのないものであり、決して失ってはならないものだと強く思っています。

シベリア抑留

子どもの頃に、シベリアで戦死した先祖がいると聞いたことがあります。

それを聞いたわたしは、その先祖の名前を尋ねて、その人のことを思って仏壇に手を合わせました。

その時は、戦争の本当の恐ろしさをよく理解していなかったと思います。

シベリア抑留という悲劇

終戦後に起こった「シベリア抑留」という悲劇。戦後75年以上経った今、徐々に忘れられた記憶になってきているのかもしれません。

戦後75年に考える シベリア抑留の悲劇はなぜ起きたのか
【読売新聞】調査研究本部 丸山淳一 終戦から75年となる8月15日、政府主催の全国戦没者追悼式が東京都千代田区の日本武道館で行われた。天皇陛下はお言葉で、新型コロナウイルスを世界の平和を脅かす「新たな苦難」ととらえ、皆で手を携えて乗

戦争が終わっても戦いは終わらず、捕虜となって寒さと飢え、さらに重労働によって多くの日本人が異郷の地で亡くなりましたが、その中にわたしの大叔父がいました。

数年前に、生まれ育った故郷の歴史に興味があり、その関係で戸籍をさかのぼれるだけ取得したことがあります。

戸籍は郵送でも取り寄せることが出来、すぐに届いた戸籍には、大叔父の戦死した記録が残っていました。

偶然に偶然を重ねて

戸籍を取得したことをきっかけに、「シベリア抑留」のことについて、知るようになりました。

戦争などで急死に一生を得ている祖父母が両家にいるので、いつも自分の命の重さを感じています。

そんな中、偶然に偶然が重なって、厚生労働省HPのシベリア抑留「遺族所在不明者名簿」の中から、大叔父の名前を見つけることになります。

抑留中死亡者および遺族所在不明者名簿には、果てしないほどの戦死した方の名前が並んでおり、すぐに厚生労働省に電話をかけました。

厚生労働省の担当の方には、「このように遺族が名乗り出ても、同姓同名の方は多くいますが、戸籍に書かれている死亡日や死亡した病院など一致する人は滅多にいないです。」と言われました。

また、大叔父の保管資料やロシア連邦政府から提供された資料の写しを請求し、約3ヶ月後に資料一式を受け取りました。

まさか、遺族所在不明者名簿に大叔父の名前が載っているとは思いも寄らないことでしたが、その当時のことを思うと、何か事情があって遺族所在不明者となっていたのかもしれません。

わたしの祖父は先祖に対して、手厚い供養をしてきた人ですが、祖父は平成2年に亡くなっており、平成3年以降にロシアから提供された資料が閲覧できるようになっているようなので、もしこれを知っていたら探していたと思います。

今思うのは祖父の代わりとなって、遺族として大叔父の資料を受け取ることが出来て、本当によかったと思っています。

ロシア連邦政府等から提供された抑留者に関する資料について(資料の一覧や死亡者名簿が閲覧できます)
ロシア連邦政府等から提供された抑留者に関する資料について(資料の一覧や死亡者名簿が閲覧できます)について紹介しています。

戸籍には

戸籍には、戦死した年月日、どこの地区の○○病院、誰が報告したのか、受け付けた日付が記されています。

厚生労働省の抑留中死亡者名簿に載っているカタカナ表記は、実際と違う名前でしたが、漢字氏名と出身地は一致していました。

きっかけがなければ、先祖の戸籍を取得する機会はないと思いますが、たくさんの人に伝えたいのは、戸籍には保存期限があるということです。

また、子孫でなければ戸籍は取得できませんし、子孫が探しに行かなければ、戸籍は誰の目に触れる事なく破棄されてしまいます。

大叔父との繋がり

今思うと、終戦の間近で召集され、抑留者になると思っていなかったと思います。

想像を絶する過酷な抑留生活の中で、どんなに家族の元に帰りたかったか、どんなに辛い思いをされたのか。

それを思うと言葉で言い表せない気持ちになり、涙が溢れてきますが、おじさんの遺骨が故郷の地に戻るまで泣かないと決めましたが、でも、いつも思い出すと泣いてしまい、それは仕方のないことなのかもしれません。

また、今年も遺骨収集事業が行われていますが、その時の世界情勢もあったり、なかなか難しいことなのかもしれません。

私には、大叔父の写真はありませんが、ロシアから提供された資料の中の人物描写を読むと、体格も身長も鼻の形も目の色も、祖父と同じ姿でした。おじさんの姿を垣間見ることが出来たことだけでも、わたしにとってはかけがえのない喜びでした。

戸籍を守る

令和のこの時代になっても、抑留中死亡者のリストは更新され続けています。

旧ソ連邦抑留中死亡者名簿50音別索引 |厚生労働省
旧ソ連邦抑留中死亡者名簿50音別索引 について紹介しています。

おじさんの供養をしたいという思いがこのような形になったと思いますが、異郷の地で家族がいつか探してくれることを待っている戦死された日本人は、たくさんたくさんおられると思います。

心当たりのある方は、抑留中死亡者名簿および遺族所在不明者名簿の中から名前を探す行動も、何よりの供養になると思っています。

そのためにも、戸籍は戦死された方を探すためにも絶対に残さなければならないものです。

追記

終戦後に起きた「三船殉難事件」をご存知でしょうか?

この三隻の内、沈まなかった船にまだ子どもだった私の祖母が乗っていました。

サハリンからのすし詰めの引き揚げ船に乗っていたのは非戦闘員で、またテーブルクロスで白旗を振っても、砲撃は止まなかったそうです。赤ちゃんをおんぶって、そのまま沈んでいく母親。

沈んだ小笠原丸と泰東丸は、まだ海の底にあります。

最新鋭機器を使って沈没船の調査も進められており、風化をさせないことが今を生きる私たちにできることだと思っています。